よい子のみんな

 

ずいぶん前にごはんを食べていたら『こどもビール』の張り紙があった。気になったのは商品よりもその宣伝文句で、『よいこだってプハーッてしたい!』とかそんな感じだったと思う。

子供たちに向かって『よい子のみんな!』と呼びかけることは世間ではよくある。特定の多数を指す言葉であり、対象は広く子供一般。遊園地で握手する話だったり教育番組であったり。この呼び方は変だとは思うけれどこれに変わる呼び方を聞かれてもいい案がすぐには浮かばない。違う年齢において対応するものとしては…『皆さん』?

僕だって世の中の子供たちはみんなよいこだと信じてはいるけど、この呼び方にはある種の期待とか押し付けがましい力が働いているように思う。そしてそれを受ける子供の方も時間軸に沿って受け取り方が変わっていってしまう。

最初のうちは自分に向けて『よいこ』と呼ばれたら、自分はよいこなのだな、と認識する。しばらくはそれに何の疑問もなくよいこと呼ばれ続けるだろうけど、いつしか自分がよいこであると同時にそう望まれている存在であると気付く。

ここで望まれた方に進むものもいれば、反発して『脱よいこ』を謀る子供も出てくる。これは実は幼年時代における大きな進路決定のひとつではないかとさえ思う。ただ、『脱よいこ』路線を歩むかは選択できるが、そうすると大人の階段は登らなくてはならない。

小学生くらいになると、ほとんどが『よいこ』と呼ばれることに不快感を示し始め、よいこの中に自分が含まれていると思う中学生はいなくなる。だからきっとよいこの人口は中学生を先端としたピラミッド型を今でも維持していると思う。

 

自分のよいこはいつまでだったろう…?