先日、上野の国立博物館に行った。
なんだかんだ誘われる度に行くので、半年に一回くらいの頻度ではある。
今回は『大神社展』。
上野の森ではレオナルドダヴィンチとかラファエロもやっていて、天気のいい土曜ということもあって
かなりの人出だった。
そこで一緒だった顕大にひとつ語った。
『日本にはこんなにダヴィンチやら神社に関心のある人がいるものかい?』
正直言って、ダヴィンチの作品と言われたらモナリザと最後の晩餐、人が手を広げてて
それが身長と同じくらいの長さだよ、っていう図、ヘリコプターの原型の設計図くらいしか
ぱっと浮かぶものはない。
神社にしたってかなり周っていて、古事記も読んだことがあって、
よそ様に『神社好きです』って言っても恥ずかしくないくらいのつもりではある。
関心の先が違うだけかもしれないけど、そんな僕でも神社の宝物と言われても浮かぶものは
三種の神器くらいで、御神体を持ち出すことはあり得ない以上はいったい何が展示されるのだろう?
という有様だった。
それなのに大層な人が来て、展示の最初にあった和服に人だかりができている。
なんの謂れがあるのかもよくわからないし、そもそも神事に使う着物について語る言葉を持っている
人なんてそうはいるものではないはずだ。
そんなものを通して思ったのは、薄々感じていたファッションとしての芸術、教養というもの。
それについてはここでは書かないとして、もう一つは
自分にものを難しく見ようという姿勢が染み付いているなということ。
これも一長一短で、自分では得るものが大きいし、大きいことを言えば人生を豊かにできるとか
思うのだが、そんな視点なんかなくても、今回のそういった神宝を見て、
『きれいだ』とか『ヘタな絵だ』とか、率直な感想を持って、強い印象を受ける。
そして後日『この前こんなものを見た』と誰かと語る。
そういう一見表面的な閲覧が普通であり、それに耐えるからこそ、その宝が評価される
こともあるのではないかと。(単純に古いというだけでも価値があるだろうが)
わざわざ難しい目で専門家のお眼鏡にかなうような感想を持とうとしなくても、
そもそもそんな専門家は世の中にそうはいないのだから、
『珍しい、ありがたいものらしいぞ』
と、前評判を鵜呑みにして鑑賞する。
それでも十分入場料のモトは取れるのかもしれない。