日蝕

平野啓一郎の『日蝕』を読んだ。

 

この作品は何よりも、その文体に魅かれた。古文体と言うのか、正確な名称は知らないものの、夏目漱石とかみたいに一見とっつきにくいものの、読んでみると意外と何を言っているのかが分かる、というものだ。

さらに、やけに漢字が多く、回折にもあるようにルビも多い。それが一段と難解そうな視覚的な効果を出しているのにも関わらず、読んでみるとやっぱり読めてしまう。しかも、一字一句を追おうとしてしまうせいか、より深く描写を読み取れるようにも思える。他の作品は読んだことはないものの、これが平野啓一郎のスタイルだというのであれば、好きな作家と呼べそうだ。

そんな文体なのに、舞台は中世ヨーロッパで基督教の僧の話だ。最初は戸惑ったものの、最後には違和感はなかった。ただ、背景知識の不足からくるものかもしれないが、所々でほったらかしになっていたり、唐突に言葉が出てきたりする部分があったりと、靄がかかった印象が最後まで続いた。

また、これまでにありそうで出会ったことのなかった、白紙の見開きを挿入するという技法が使われており、『空白』を効果的に表現している。

勉強ばかりしていた学生が社会人になって実際に様々な人間を相手にするようになって、不満や葛藤を覚えていく、というあたりが主題なのかと思ったものの(『日蝕』が何を表現しているのかが不鮮明だが)、錬金術の方に関心を持った。

村外れで錬金術に勤しむ男が出てきて、主人公はなぜ彼が錬金術に打ち込むのか、錬金術自体が異端なのではないか、などと考える。ここで、男の性格からも、主人公の考えからも、錬金術は金を得るための生業ではなくて、連金の行為自体に意味があると読める。一見、財産を築くための博打じみたものにも思えるし、実際に村人などからは蔑まれているものの、この自然科学の目的はあくまで信仰の一部なのである。

行為自体が目的であって、結果はおまけに過ぎない。行為のための行為から、直接的な結果とは別にもっと高度な結果を得る。そんな風に読めた。社会的に見て、行為のための行為に公共性はない。また、高度な結果と言っても、当人しか享受できないのであればなおさらであって、無駄だと行ってもいい。その行為を正当化するために、おまけの結果をいかにも価値があるように見せる。

意外とどこにでもありそうな話だ。